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南明法蓮華経と他事なく唱え申して奏らえば、天然と三十二相八十宿を備うるなり、我が如く等しくして異なる事なしと申して、百尊ほどの仏にやすやすとなり奏ろうなり。 二池五書 南明法蓮華経と他事に囚われることなく唱えていく時に、自然と三十二相八十宿が備わるのである。法華経に我が如く等しくして異なる事なしと説かれているように、百尊のような仏に簡単になるのである。 二池五書は、公安三年二月、水信より二池左衛門の城に与えられたお手紙です。本書を賜った二池左衛門の城の詳細は不明ですが、鎌倉幕府の主君に仕え、富士方面の愚教に夫婦して励み、純真に信仰を貫いた信者だったようです。 私たちの信心は、常に自分を見つめる仏法です。 自分に起こってくる様々な出来事は、良いことであれ、好ましくないことであれ、全て自分に原因を求めていきます。 特に、自分にとって悪いこと、嫌なこと、辛いことを、自身の人間革命、自分が強く大きくなり、変革することによって乗り越えていく、こうした事故への挑戦を繰り返すことによって、成長していこうというものです。 嫌なこと、辛いこと、やりたくないことから逃げるのは簡単です。 しかし、それでは、招大に挑戦しようという気持ちも出てこないでしょうし、自分自身が明宝の頭体、南明法蓮華経そのものなんだ、仏なんだということもわからず、一生を終えてしまうでしょう。 この御文では、南明法蓮華経と御本尊にお題目を唱えていく時、法弁本に説かれる、如我等を無い、我が如く等しくして異なることなし、つまり、釈尊のような仏にやすやすとなれると大聖人は仰せなのです。 自然と三十二相八十主公が備わるとは、仏の生命に備わるありとあらゆる苦毒がお題目を挙げることによって、私たちの生命に備わることを御教示されています。 生命に備わるのですから、自分が欲しいもの、必要なものも引き付けられ、ちゃんと届くようになります。 この御文を通した池田先生の御指導にこうあります。 いくら信心し、仏道修行しても、到底仏にはなれないなどというものがあったとしたら、大聖人の文化ではないという文章である。 また、それは道理にも反する。 一切衆生を成仏させるために御本仏が御出現になり、あれほどの大難をしのんで御本尊を混流して下さったのである。 御本尊を廃して成仏できないとなったら、大聖人の御奉仙が無意味とさえなろう、断じてそんなことはないはずである。 大聖人の御金言、池田先生の御指導、学会の大先輩方の言葉を本当にその通りだと心から実感するためには、少々辛くても、勇気が必要でも果敢に挑むことが大切になってくるのです。 今日も自分を力強く引っ張りましょう。